'09の春、テレビのジャンクSPORTSで石川弘樹さんを見て、これだと思いました。 以来、大峯奥駈をベースにお山に出かけています。 トレランと言っても、歩くよりも遅く、写真を撮りながらのんびり駈けてます( ^ω^) レンズ:Ai AF Nikkor 50mm F1.4D カメラ:NIKON D750 スマホ:iPhone13 mini
2012年1月25日水曜日
ある朝の「爽やかな気分」
トレイルランニング、ハイキング、山登り、
自分が楽しんでいるのは、こんな言葉で表現される領域。
お山へ行って、自然を楽しみながら、
これって何を楽しんでるんだろうって常々思う。
極端なケース、全く一人で道具もなしに道なき未踏の山へ入っていくことをイメージすると、
それは恐いだけで楽しめないなと思う。
先人の切り口に共感したので紹介です:-)
朝の空気の「爽やかさ」での例えが面白い。
(「我々」と「己」とを使い分けてます:-)
”朝の爽やかさ” は ”お山の楽しさ”に置き換えられると思う:-)
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「風土」(和辻哲郎著)第1章 風土の基礎理論 の一節
我々がある朝「爽やかな気分」において己を見いだす。
これは空気の温度と湿度とのある特定の状態が外から影響して内に爽やかな心的状態を引き起したとして説明せられている現象であるが、しかし具体的経験においては事情は全く異なっている。
そこにあるのは心的状態ではなくして空気の爽やかさである。
が、空気の温度や湿度として認識せられている現象は、この爽やかさそのものと何の似寄りも持たない。
爽やかさは「あり方」であって「もの」でもなければ「物の性質」でもない。
それは空気というものに属してはいるが、空気自身でもなく空気の性質でもない。
だから我々は空気というものによって一定のあり方を背負わされるのではない。
空気が「爽やかさ」のあり方を持つことは取りも直さず我々自身が爽やかであることなのである。すなわち我々が空気において我々自身を見出しているのである。
しかしまた空気の爽やかさは心的状態の爽やかさではない。
それを最もよく示すものは朝の爽やかな気分が直接に我々の間の挨拶として表現せられるという事実である。
我々は空気の爽やかさにおいて我々自身を了解している。
爽やかなのは己の心的状態ではなくして空気なのである。
だからこそ我々は、他人の心的状態に目を向けるというごとき手続きを経ることなく、
直接に互いの間において「いいお天気で」「いい陽気になりました」などと挨拶する。
我々はともに朝の空気の中へ出て、ともに一定の存在の仕方を背負うのである。
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「背負う」って比喩は、まいいか:-)
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